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私はゆきあたりばったりの人間である。自分の将来計画など考えたことはない。
今は不動産鑑定士をやっているが、これも瓢簞からから駒の類いである。
金商又一の時、私のすぐ下にH君というのがいた。社内きってのノンベーで、前の本部長ももてあまして私のところに回されてきた男であった。彼は奥さんがやかましくて家でお酒が飲ましてもらえない。だから、夕方までにその日のノミ仲間を探さなければならない。一番近くにいる私がまず最初の被害者となる。
毎日ではかなわないから、夕方、彼がトイレに立った隙をねらって会社を出る。200mも歩かぬ内に、いつの間にか私の後ろに追いついてきた彼が「チョット30分寄りましょう」と袖を引く。「30分だけだぞ」と念をおして、のれんをくぐる。社内のうわさ話や人の悪口などは聞きたくもないので、早く終わらせようと、ガンガン飲ませる。杯ではハカがいかぬから、コップ酒といく。こちらも反動で酔っぱらってくる。「もう1軒」と彼が席を立つ頃には、何時のまにかこちらも出来上がっていて、先頭に立ってしまう。かくして帰りは午前サマ。
金商又一は歴史の古い会社なので、不動産がいろいろあった。私のところで不動産事業を始めることとし、不動産を売ったり買ったり、本社ビルや大阪支社ビルを建設し、貸しビルも3棟建てた。これに関連して仲介業も始めることとし、宅建の資格者が要るようになった。H君にとらせようとしたが、試験を受けようとしない。やむなく私がとることにした。「その代わりお前との夜のつきあいはなしだぞ」と宣言した。これはそれなりの効果があった。
資格をとった後の口実に困った。次に何かないと探したら不動産鑑定士というのがあるということを知った。
1回目の試験は時間もなかったので、ほとんど歯が立たなかった。しかし、勉強さえすればこの試験はうかるなという感触は得た。
2年目はやはり時間不足であった。「不動産鑑定評価基準」というのがある。受験生はこれを丸暗記しなければならない。記憶力の鈍った老人にはこの難行は厳しい。
2回落ちてこれは容易ではないと悟った。3年目は試験がすんだ翌日から勉強を始めた。週日の勉強は専ら電車の中。土曜日は家で勉強し、日曜日には予備校に通って試験を受ける。受験生は100人くらいで、2週間後には上位15位以上くらいまでが名前と点数と順位が発表される。私は10位を割ることはほとんどなかったので、これは随分励みになった。家でテレビゲームを見て過ごすより遥かに内容があり、面白かった。
合格後、平成9年4月、池袋に事務所を開き、独立開業した。
開業早々は順調であった。当時銀行は不良債権の処理に追われていた。案件の規模が大きいので、まともに信託銀行で鑑定をとっていたら、鑑定料は莫大となる。銀行OBの私に頼めば秘密は守れるし、安くやってくれる。銀行も重宝したのであろう。それに加えて、当時金づまりで、貸し渋り、貸しはがしが問題になっていた。銀行には金がないので取引先に不動産担保付きの社債の発行をすすめていた。この担保評価の仕事が私のところへ回ってきた。会社の支店、出張所、店舗、工場等は全国にちらばっている。私は北は北海道から南は沖縄まで全国を走り回った。この頃の思い出はいっぱいある。鑑定士は稼業で一番面白い時期だったかも知れない。自分が鑑定した会社が3ヶ月か半年後には、会社更生法とか、民事再生法適用とか新聞に現れると社会と繋がっているなという実感がもてる。
やがて、不良債権も片付き、銀行もお金がジャブジャブになって、不動産担保付きの社債もなくなった。それとともに銀行とのおつきあいも途切れるようになってきた。
鑑定士はほとんど地価公示の仕事に参加している。稼ぎの少ない鑑定士も3年に1度回って来る固定資産税の仕事で息をつく。地価公示をやれるのは70才まで、私にはお呼びはない。
役所から時々こういう鑑定の仕事があるが希望者は申し込むようにという手紙が来る。申込書には必ず地価公示と固定資産税の担当地区を書くようになっている。私は空欄である。したがって、こういう種類の仕事にありついたことはない。
鑑定士を5年、10年やっていると競売の仕事が回って来る。また、裁判所の仕事がある。65才以上はこれもシャットアウトである。不動産鑑定士には停年がなくていいですねと言われる。
停年制はないが、以上のような社会的停年というのがある。人から老人扱いではなく、普通に扱ってもらえれば、今頃はもう左うちわの筈だが、この差別は何だろう。(…)
1ヶ月、2ヶ月と電話1本かからぬ時がある。このまま永久に仕事が来ないのではないかと焦る。たまに電話のベルがあって、飛びつくとセールスの電話。1人若い人を入れているが、彼の給料を払うと私の頂くものがない。2ヶ月、3ヶ月と遅配が続く。それだけならよいが、経費は容赦なく毎月回ってくる。なけなしの退職金の残りをつぎ込んで穴を埋めるが返ってこない。これでは身の破滅。廃業をする外ないかなと思い始めた。
ところが、昨年の初めからどういうわけか仕事が増え始めた。一番大きな理由はマンション不況である。これまで数年、あるマンション業者の依頼で、3月決算に売れ残ったマンションの評価替の為の鑑定をやってきた。それが、マンション不況で、昨年はこの件数が3倍になった。それも年1回だけでなく9月の中間決算でもやるという。おかげで、3月、9月は土日、祭日なし。
このほかでも昨年は僅かながら新規の仕事も増えてきた。お客がお客を紹介してくれることもある。10年以上も不動産鑑定士の看板をかかげてやっているといろいろなつながりもできてくるのであろう。
開業早々の頃、鑑定士の長老とゴルフを一緒に回ったことがあった。「不動産鑑定士になるには』という本を読んだばかりのあとだったので「不動産鑑定士で一人前になるには10年かかるそうですね」と私。
「それは、鑑定の技量が一人前になるということですか、それとも営業的な意味での一人前ということですか」とN氏。
「さあ、それはわかりません」と私。
「営業的という意味であれば、15年はかかりますね。一つ、一つ真面目に仕事を積み重ねていたら、15年くらいしたらアチコチから仕事がくるようになりました。一人前になったのかなあという実感がありました』とN氏。
私は開業してから11年になる。15年はまだ先だが、あるいは15年にむけて歩き出したのかも知れない。こうなったら15年までやって、一人前というものはどんなものか味わってみたい気もする。独立開業したのが71才のときだから、独立から15年やると86才になる。それまで命がもつか。いま体は別にどうということはない。仕事を続けるには気力、体力、脳力が充実していないとこの仕事は続けられない。86才になったらどうなるか、それはその時次第である。野球選手や相撲取りが力の限界を感じとって引退するように、限界を感じれば、引退するより外ない。
不動産というものは、人の顔が一つ一つ違うように、どれ一つとして同じものはない。一つ一つが新しい発見であり、一つ一つが新たな挑戦である。まだ勉強しなければならないこともいっぱいある。不動産鑑定という仕事は面白いし、難しい案件をやり遂げた時は達成感もある。その上、お金まで頂けるし、時には感謝されることだってある。
もしかしたらこういう状態を人は『生涯現役」と言うのかも知れない。「生涯現役」という言葉の響きは悪くないではないか。ゆきあたりばったりの人生でこんなことになってしまったが、「生涯現役」の四文字を胸に秘めて、ゆきあたりばったり、いくところまで行ってみようかと思っている。
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